存在の耐えられない軽さとしての主権国家

米国政府によるベネズエラ大統領拉致の件ですが、主権国家体制をガン無視しているわけで、ある意味、神をも恐れぬ行いを現代においてやらかしてしまったといえるでしょう。
何ごとも一定の規範や制度やコミュニケーションの基盤があって、その基盤の下で、対話や交渉による合意が成立します。国際的な問題であったとしても、そういう基盤があるからこそ、交易もある程度の世界平和も、成立できているわけです。
で、その一つの基盤が、原則として他の主権国家にちょっかいを出さないということであったかと思います。しかし、これはなかなか微妙なハナシでもあります。「どういう条件をクリアしたらちょっかいを出してよいのか?」というハナシになったときに、国内であれば司法に判断してもらえばよいのでしょうが、国際的な問題となると、世界を統一する憲法みたいなものはこの世にありませんので、個別の事例に対してスッキリと明快なYes/Noの答えを出せないことも多いわけです。そのため、20世紀後半以降の世界では、国際連合がその判断主体を担って、場合によっては国際連合の平和維持活動が直接介入することも過去にはあったわけです。
で、今回のベネズエラの場合、明らかに米国政府独自の判断で武力を行使しており、国連なり何なりの上位の規範のお墨付きは貰ってないわけです。とはいえ、拉致された人はかなりヒデェことをやっていたらしいという話もあり、厳密にはルール違反かもしんないけど、仕方ないんじゃね、という見解もそれなりにあるわけです。じゃぁどっちなんだよ!?というときに、正解を教えてくれる人は誰もいない、のがこの青い地球。
日本政府が拉致問題を理由にキム主席を日本に拉致してきて日本の国内法で裁判にかける、というシナリオとほぼ同じかもしれませんね。そいえば金大中事件なんていうのも昭和の頃にありましたね。あれに似てるかも。
しかし、ルール違反だからいかん!と米国政府を一方的に非難するのもなかなかビミョーで、そもそも「ルール」が曖昧な存在であり続けてきたわけです。もし明確で拘束力のあるルールが地球上に存在するのであれば、トランプ大統領こそがいまごろ欧州にでも拉致されていることでしょう。
で、結局はその主権国家体制という、ごまかしごまかしというか、微妙でフワッとした存在の規範が、よりによって最強の軍事技術を有する米国政府によってチャレンジされてしまったわけです。
これから数日がある意味、世界の大きな分岐点になるかもしれません。このフワッとした、存在の耐えられない軽さのような規範を、腫れ物のように触らずに、今までどおりやっていきましょうや…となるか、主権国家なんて妄想だったんだから好き勝手やっちゃおうぜとホモ・サピエンスが暴れだすか…。
2026/01/05 8:33 PM - ツイート
